2021年 04月 11日
今年も咲いた、芍薬の花
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今年も綺麗に咲いてくれた、我が家の玄関先ガーデンの芍薬。今年は、いっそう綺麗な花を咲かせてくれたように思う。なんだかこんななんてことない日常が、幸せをもたらしてくれてるんだと気付かされる。欲を言えば、キリがない。『我唯足るを知る』が、心地いい。

近くに、そこそこまとまった広さの物件が売りに出た。売りに出ると言う情報をつかんでたので、価格によっては終の住処にいいかもねってMamaと話していた。その場所は大通りから奥に入ってるので坪単価このくらいだろうとか、ってことは総額このくらいかなとか、資金はどう確保しようかだとか、そんな先走った妄想で勝手に盛り上がっていた。
Mamaが先日新聞の不動産屋さんの折り込み広告に、その物件だろうというのを見つけた。その販売価格は、ぼくたちの予想を遥かに越えていた。とてもじゃないけど、手の出る価格じゃなかった。そりゃ思いっきり無理すれば、なんとか手を出せるかもっても思ったりもした。でもね、その物件のために、これからの生活を切り詰めるってのもどうなのかなって・・・。

そもそもぼくたちが終の住処にって考えたのは、これからの生活をこころ豊かで上質な時間にしたいから。その手段であるべき住処を持つことが、目的に変わってしまって、しかもこころ豊かで上質と言える時間を持つには少々無理のある経済状態になるのなら、本末転倒もいいところだ。

ぼくたちは、これからの時間をこころ豊かで上質にするためにお金を使う。そのお金は、限られている。だから、住処に使うお金、おしゃれに使うお金、知的好奇心を満たすために使うお金、旅行に使うお金、ぼくとMamaがそれぞれの趣味に使うお金、周りの人の幸せのために使うお金、それらをバランスよく配分する。その根底には、『我唯足るを知る』の考えがあって、贅沢じゃなくってもいいからこころ豊かで上質な暮らしがしたい。

毎年綺麗な花を咲かせてくれる芍薬を見ていると、とても幸せな気分にしてもらえる。これがぼくたちが望んでいる、こころ豊かで上質な暮らしなんじゃないかなと教えられる。


by nishan-cordy | 2021-04-11 17:46 | 住まいと暮らし | Comments(0)
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